大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

岡山地方裁判所 昭和39年(わ)361号 判決

被告人 石丸文子 外二名

主文

被告人石丸文子、同八谷忠治を各無期懲役に、被告人西村巌を懲役一〇年に、それぞれ処する。

未決勾留日数中、被告人石丸文子、同八谷忠治に対しては各三〇〇日を、被告人西村巌に対しては四〇〇日を、それぞれの刑に算入する。

被告人八谷忠治から、押収してある刺身庖丁二本(昭和三九年押第九一号の二二、同号の二三)を没収する。

訴訟費用中、証人石丸トメ、同大石カヨ子、同今泉マサ子、同月山寛次、同菱岡与四郎、同西村誠治郎(ただし、昭和四〇年一〇月二一日支給分)、同小寺静子(ただし、昭和三九年一一月二六日支給分)、同中島清子、同南里常利、同宮地元嗣(ただし、同日支給分)、同松岡茂子、同大場タカ、同松本あい子に支給した分の全額および証人西村誠治郎(ただし、同日支給分)、同石丸清、同石丸トキ子、同藤井康雄に支給した分の二分の一は、いずれも被告人石丸文子の負担とする。

理由

(当裁判所が認定した事実)

一  被告人三名の経歴

被告人石丸は、佐賀県神埼郡三田川村大字箱川で石丸勘六の長女として生れ、地元の小学校高等科を卒業後一時遠縁にあたる生島家の養女となつて大阪へ出たが、まもなく実家に帰り、家事を手伝うかたわら近在の競馬場に勤務するうちに美人コンクールで一位に選ばれたことが契機となつて二一才のころ九州きつての博徒の親分大石八郎治の愛妾となつたが、昭和二一年ごろ同人が死亡したのちは製めん業を営む宮地元吉の妾となり、昭和二六年ごろ肩書住居地である同郡神埼町二丁目三六五番地に転居し、昭和三〇年ごろから同所で旭旅館の経営を始めたが、昭和三六年七月ごろ同人とも死別し、その後は他の一、二の男と同棲したり、或いは一時関係を続けたこともあつたが、右宮地との間に生れた二人の子供とともに暮していたものである。

被告人八谷は、本籍地で八谷忠の次男として生れ、三田川小学校を経て佐賀県立三養基中学校に進学したが、昭和二〇年同校を退学し、単身職を求めて朝鮮に渡つた。戦後郷里に引揚げてからも一時親元を離れて西鉄電車の運転手や店員として働いた後実家に帰り、しばらく農業の手伝をしていたが、まもなく窃盗罪などにより服役したこともあり、昭和二九年ごろから八谷興行部の名で神埼町周辺において興行の売り込みを始め、昭和三四年七月ごろには現在の妻ヨシ子と結婚し、やがてその間に二児をもうけ、昭和三六年五月ごろからは肩書住居地で飲食店「丸八食堂」の経営を始めたが、営業不振のため昭和三九年五月ごろにはこれを閉店し、定職もないままに過していたものである。

被告人西村は、柳川市西蒲地七七一番地で古賀羊の長男として生れ、蒲地小、中学校を卒業した後柳川郵使局に臨時集配人として約一年半勤め、その後家業の農業を手伝つていたが、昭和三〇年ごろ両親と共に佐賀県神埼郡神埼町に転居し、以来土方などして働くうち悪事に走り、しばらく刑務所に服役した後昭和三六年一一月、当時前記「丸八食堂」の店員であつた西村キミ子と結婚しそのころ西村家の養子となつて養家の農業を手伝うなどして養父母、妻および長女と暮していたものである。

そして、被告人石丸と同八谷は、共に三田川村の出身であり、被告人石丸が大石八郎治の世話になつていた当時からの顔見知りであつたが、昭和三四年一二月ごろ被告人八谷が肩書住居地に引越してのちは格別親交を深めていた。一方、被告人西村は、昭和三〇年ごろ神埼町のパチンコ屋で当時その用心棒をしていた被告人八谷と知り合い、以来同被告人方に出入りするようになり、日頃同被告人を「おやつさん」と呼んで追従していたが、被告人石丸とは被告人八谷を通じて数回顔を合わせた程度の間柄でしかなかつた。

二  本件犯行の動機および犯行に至るまでの経過-その一

被告人石丸は、かねてから佐賀市内で一流の旅館を経営したいと望んでいたが、ふとしたことから病弱者に多額の保険を掛け、その保険金を得て建築資金をつくろうと思い付き、従妹の石丸トメが虚弱で酒を好むところから同女を被保険者とすれば数年のうちには或いは同女が死亡し多額の保険金をたやすく得られるかもしれぬと考え、同女を被保険者として被告人石丸が保険金受取人となつて昭和三五年九月頃、千代田生命に保険金一〇〇万円、協栄生命に保険金二〇〇万円、日本生命に保険金一〇〇万円と相次いでいずれも災害倍額払い特約付の各生命保険に加入し、それぞれそのころ一年分の保険料を支払い、以来心中ひそかに石丸トメの死を待ち望んでいた。

しかるに石丸トメは、被告人石丸の思惑に反し一向に死亡する気配がないのみか、かえつて久留米市内の旅館で事もなく働いており、被告人石丸としては女中に売春させたりしてようやく旅館営業を続けている始末で、年間一〇数万円の保険料を支払い続けることに少なからぬ負担を感じていたうえ、いつまでも売春旅館を続けていたのでは子供の教育に悪影響をおよぼすことを慮り一日も早く日頃の宿願を実現したいと切望するようになり、他にその資金を調達する心当りもないままに昭和三六年九月ごろいつそ石丸トメを事故死を装つて殺害し、右各保険金の支払を受けようと思い立つに至つた。

そこで、被告人石丸は、近所に住み平素から親交のある木下国三が、かつて大石八郎治の子分であつたところより同人に石丸トメの殺害を依頼しようと考え、そのころ旭旅館において、右木下にその事情を打ち明けて、承引を得たうえ、まず同年一〇月ごろ右木下が猟銃で誤つて射つたようにして殺すこととし、同女をして木下の待ち伏せる山道を通らせるべく計つたのを手はじめに、以来昭和三八年三月ごろまでの間、木下が″毒薬″と称する粉末を同女に飲ませたり、又、汽車から突き落すため久留米駅から木下とともに同女を送り出したり、あるいは自動車もろとも崖から突き落すことを企てるなど八方手を尽して同女を殺害しようとしたが、右木下には当初から殺意がなかつたため、いたずらに日時と経費をついやすのみで、いずれも徒労に帰してしまつた。その間、石丸トメと肉体関係を持つようになつた右木下は、同女に対しそれとなく被告人石丸の邪念を仄めかし被告人石丸やその親族に所在を明かさないよう勤める一方、昭和三八年夏ごろ、被告人石丸に対しては、それらしい新聞記事の切抜きを見せながら、石丸トメの死体が発見されたが、手違いから身元不明者として処理されてしまつた旨まことしやかに報告したので、木下の言うがままに信じて疑わなかつた被告人石丸は、これを真にうけ、石丸トメが死亡したとして保険金の支払を受けることがもはやかなわなくなつたため、このうえは別に同女の身代りとして他の女を殺害し、あたかも石丸トメが死亡した如く仕立てて保険金を取ろうと考えるに至り、同年一〇月ごろから数人の女をその対象とすべく木下とともに次次とその女たちと面会して相手の身上を探つたり、或いは殺害のため連れ出したりしたが、結局前同様木下に殺意がなかつたため、いずれもその目的を果しえぬうち、昭和三九年六月ごろになつて被告人石丸は、ようやく木下の言動に不審を抱き、強く同人を難詰した末、遂に同人に石丸トメの身代りとなる女の殺害を依頼することを断念するに至つた。

三  本件犯行の動機および犯行に至るまでの経過-その二

被告人八谷は、昭和三八年六月八日福岡高等裁判所で罰金五万円に処せられたが、その金策がつかず未納のままであつたところ、昭和三九年四月ごろ収監状が発布されていることを聞き知り、以来人目を避けて不安な毎日を過していたが、飲食店の経営も不振で同年五月ごろには前記のとおり閉店せざをえなくなり、生活費にもこと欠く状態であつたため、被告人石丸によい金儲けの口があれば世話して欲しい旨頼んでいたところ、被告人石丸としては、昭和三八年三月以来石丸トメの所在が全く不明であるところから、なお保険金騙取の計画の実行を諦めておらず、被告人八谷の右窮状に乗じ、同人に依頼して石丸トメの身代りとなる女を殺害させようと考えついたが、今度は木下国三の轍を踏まぬよう用心し、いきなり真意を打ち明けることをせず、同年六月中旬ごろ旭旅館で、同被告人に、命がけの仕事だがやれば一〇〇万円位の金になる旨極めて漠然とした話を持ち掛け、以来それとなく同被告人の気をひいていたところ、同年七月四日被告人八谷は、日南市飫肥に住む妻の実父が死亡したとの通知をうけ、会葬するため急ぎ旅費等を算段すべく奔走したが、思うにまかせず、他に心当りもないところから、この際予ねて被告人石丸から仄めかされていた命がけの仕事を引きうけ、取敢えず同被告人からまとまつた金員を借り出すとともに、事後その報酬を得て生活の立直しを図ろうと考え、翌五日夜旭旅館に被告人石丸を訪ねた。そこで、被告人石丸は、被告人八谷に、石丸トメに保険を掛けているが、同女が所在不明であるため保険金を受け取れないから、同女に年恰好の似た女を事故死を装つて殺害し、その女を石丸トメに仕立てて保険金を取る決心をしている旨その真意を打ち明け、これを実行してくれれば謝礼に一〇〇万円出そうと申しいで、さらに、以前他の男に殺害を依頼していたがその男が最近死んだこと、同人の話では大阪にわずかな謝礼で人を轢き殺してくれるものがいるらしいこと、また米子か鹿児島附近には汽車から突き落して殺すに恰存の場所があるらしいこと、身代りの女としては石丸トキ子を考えていることなどこれまでの経緯を多少歪曲して話すとともに、殺害の方法および対象につきその心算を明らかにした。被告人石丸としては、石丸トキ子が当時旭旅館で女中として働いており、石丸トメと年恰好が似ていて智能が低く地理に極めて不案内であるうえ、日ごろから佐賀県小城郡芦刈村通称住之江の釘本勝治方に着替を取りに行きたがつていたところから、容易に連れ出せると考えて同女を選んだのであるが、事の真相を知つた被告人八谷は躊躇しつつも窮余の金策とてないままに右計画に加担すべくこれを引受け、殺害の方法およびその場所については被告人八谷が大阪から米子方面に出かけその下調べをしたうえで定めることに一決し、その費用として被告人石丸は同八谷に対し二万円渡すことを約した。

翌六日被告人石丸は、当日の武生競輪で右二万円を作る積りであつたが、果せなかつたため知人から借ることにし、同夜旭旅館で、被告人八谷にその旨を告げ、明七日佐賀市内の玉屋百貨店で二万円を渡すことを約すとともに、石丸トキ子殺害に際しては同女に石丸トメの本籍氏名を書き込んだ財布を持たせて恰も石丸トメが死亡した如く装うようにすること、そしてまた死亡した女が石丸トメでないことがわかるような物は一切持たせないように配慮するよう注意し、かつ石丸トメの本籍地を被告人八谷に教示した。

翌七日被告人八谷は、右百貨店で女持ちの財布一個(昭和三九年押第九一号の三五)を買い求め、被告人石丸から約束の二万円を受け取つた後、一旦情婦の佐賀市上芦町八九番地隈美恵子方に帰り、情を知らない同女をして右財布に石丸トメの本籍氏名を書き込ませ、これを持つて同夜佐賀駅からひとまず前記飫肥に向け出発した。

そして新仏への回向をすませた被告人八谷は、同月一〇日朝同所を発ち、北九州市に一泊した後、前記の殺害方法について大阪の知人に打診すべく翌一一日大阪に向い、同夜その知人に会つたものの話を切り出せないまま翌一二日大阪をあとにし、山陽線経由で一三日午前二時ごろ佐賀駅に帰着した。

そしてその夜被告人八谷は、旭旅館に行き被告人石丸に会い、大阪の事情を話すとともに、前の男がいつていたとおり米子附近にいい場所がある旨報告したが、被告人八谷としてはそのころすでに米子附近で汽車から突き落して殺害する計画であつたものの、被告人石丸には飫肥に立ち寄ることを隠していた手前米子附近を下見分しなかつたにしては日時を要し過ぎたところより、右報告に際し列車時刻表中の鉄道地図を示しながらいかにも下調べして来たように現場の説明をし、被告人石丸は右報告を了承した。かくして被告人石丸と同八谷との間に、石丸トキ子殺害の方法およびその場所が決定し、この上は両被告人とも一日も早く右計画を実行に移そうとしたが、被告人八谷の意見により翌一四日被告人石丸において念のために今一度石丸トメの動静を探ることを約して別れた。

翌一四日夜被告人石丸は、旭旅館で、被告人八谷に対し、石丸トメの所在が依然不明であることを告げて同被告人を安心させ、明一五日午前一〇時三〇分ごろ佐賀市城東中学前バス停留所まで石丸トキ子を送り出し、同所で被告人八谷が同女を受け取ることを打合わせたうえ、同被告人に旅費として三万円を手渡した。

ところで、被告人八谷は、前記殺害計画を被告人西村と共同で実行しようと考え、翌一五日朝前記隈美恵子方に同被告人を呼び出し、同所で、一〇〇万円で女の殺害を頼まれたが手伝えば二〇万円分け前をやろうと打明けてその協力を求めたところ、これを聞いた被告人西村は、平素から金に窮し、養子先の家、田畠が抵当に入つているうえ、近づく妻の出産に備えまとまつた金を工面しなければならない状態にあつたため、その窮状を脱するためにも、かつは被告人八谷に従前万事世話になつている義理からもその申出を断り難く、遂に右計画に加担することを承諾した。そこで、被告人八谷は、前同様鉄道地図を示しながら、米子附近で女を汽車から突き落して殺害するものであることを説明し、突き落す役割を被告人西村に命じたが、その際殺害の動機等については、単に、金は旭旅館から出るものであり、相手の女は智能が低いと説明した程度にとどまつた。

そして被告人西村は、被告人八谷から五、〇〇〇円を受け取り、同日昼ごろ佐賀駅に出て、同被告人に指示された上り列車に乗車した。一方被告人石丸は、同日石丸トキ子に対し、被告人八谷が住之江まで送つてくれるからついて行くよう申し向けて、同女を前記城東中学前バス停留所まで送り出し、被告人八谷は、同停留所において同女を受け取つたうえ、同女に、用事をすませてから住之江に連れて行くからついて来るようにいつて、同女を伴い被告人西村と同じ汽車で米子に向け佐賀駅を出発した。ところが、途中石丸トキ子が早く住之江に連れて行つて欲しいと執拗に懇願しだし、被告人八谷の言に耳を藉さないようになつたため、止むなく同被告人は小倉駅で下車し、電話で被告人石丸にその事情を報告したところ、同被告人はなお甘言を弄して連れて行くよう指示したが、被告人八谷は、右トキ子の言動よりしてこの場合は同女を一旦住之江に帰し、後日改めて連れ出そうと飜意して、佐賀に引き返したうえ、同女を一人住之江に帰らせたが、その際同女に、翌一六日午前九時三〇ごろに佐賀駅まで出て来るよういいつけておいた。

そして翌一六日朝被告人八谷と同西村は、それぞれ佐賀駅に赴き、右トキ子が来るのを待つたが、同女が遂に現れなかつたので午前一一時ごろ隈美恵子方に引き上げ、かくして石丸トキ子殺害の計画は失敗に終つた。

四  罪となるべき事実

被告人石丸は、被告人八谷が石丸トキ子をなんとか連れ出したものと思つていたが、同日昼ごろ同女から電話ではじめて計画が失敗に終つたことを知り、直ちに同日昼すぎごろ隈美恵子方に馳けつけ、被告人西村や美恵子を退けたうえ、被告人八谷に対し、右失敗の説明を求めて一頻り被告人を詰つた後、同女殺害の計画は取り止めることとし、今度は古館よしの(死亡当時四二年)を殺害するよう提案したところ、被告人八谷もこれを引き受けた。右古館よしのは、以前旭旅館で女中として働いていたことがあつて被告人八谷とも面識があり、石丸トメに年恰好が似ていて、身寄りも少ない酒好きの女であるうえ、僅か一〇日ばかり以前の同月六日ごろ被告人石丸が指輪などを担保に金を貸しているので連れ出すことは容易と思われたが、同女が以前に入墨をしていたと思われる節もあるので、なおその有無を確かめるため、被告人西村を呼び入れ、同人にいいつけて佐賀駅前の飲食店「ほがらか」に赴き同女を旭旅館に伴うよう手配したが、被告人石丸は、そのときはじめて同被告人が殺害の計画に加わつていることを了知した。そして被告人石丸は、被告人八谷とともに一足先に旭旅館に帰り、被告人石丸において古館よしの入墨の有無を確かめたうえ、翌一七日午前九時三〇分ごろ同女を久留米駅まで連れ出し、同所で被告人八谷に引き渡すことに手筈を決め、被告人八谷は、やがて旭旅館に古館よしのを連れて来た被告人西村とともに佐賀へ帰つたが、その帰途被告人西村は、被告人八谷の話振りから殺害の対象が石丸トキ子から古館よしのに代つたことを察知し、かくして、被告人石丸、同八谷、同西村の三名の間に、右古館よしの殺害の謀議が成立した。

そして右謀議に基づき、被告人石丸は、一六日夜古館よしのを旭旅館に泊め、同女が身寄りのものと絶縁しており、入墨も消していることを聞きただし、同女を殺害してもその身元が判明するおそれのないことを確認し、翌一七日朝同女に対し、被告人八谷が女を連れて行くから一緒について行つてくれと嘘をいつて、久留米駅まで同女を連れ出し、同所で被告人八谷に引き渡し、被告人八谷、同西村は同女とともに同駅から乗車し、博多駅で米子行準急「やぐも」に乗りかえたうえ、同日午後七時三九分ごろ米子駅に到着した。そして一旦古館よしのを駅前の光田旅館に残し、被告人八谷、同西村は、殺害場所を下見分するため伯備線米子発午後八時四七分の汽車で武庫駅まで赴いたうえ米子駅に引き返したが、途中伯耆溝口駅と江尾駅間にトンネルの前に鉄橋があり、同所が殺害場所として適当であることを見定め、伯耆溝口駅寄りの鉄橋を第一の殺害場所と決め、かつ被告人八谷は、被告人西村に対し、くわしい事情は告げないままに、汽車から突き落す前に古館よしのに前記財布を渡しておく必要があることを語つた。

翌一八日朝になると古館よしのを駅前のパチンコ屋に残して被告人八谷、同西村は、殺害場所の再見分に出かけ、殺害後江尾駅から汽車で米子駅に引き返して逃走する手筈も決め、午後一時ごろ米子駅に帰り、古館よしのと三人で映画見物等で時間を費した後、駅前の飲食店で同女に酒を飲ませ、さらに駅の売店で清酒四合ビン一本を買い与え、女を連れに行くからついて来てくれといつて、米子発午後八時四七分の前記列車に乗り込み、前日打ち合せたとおり被告人八谷は同女と一緒に最後尾の客車に席をとつて小遣銭を与えるように装つてかねて用意の前記財布を同女に渡し、被告人西村はデツキに立つて待機するうち、列車が伯耆溝口駅を出たころ、被告人八谷は、同女をデツキに連れ出したが、被告人西村が車内から二人の姿が見えると注意したのでその位置をかえているうち、早くも第一の鉄橋は通過し、第二の鉄橋に差しかかつたので、被告人西村は、いきなりよろめいた如くに自己の胸のあたりで同女の右肩を突いたのであるが一瞬怖気づいて力が入らず、同女の身体をぐらつかせた程度で列車から転落させるには至らなかつた。そこで被告人らは江尾駅で下車し、同駅前附近で被告人八谷は、被告人西村を詰つた末、帰途再度突き落すことも考えて見たが、恐らくよしのが再びデツキに出てくるようなことはあるまいとの被告人八谷の意見で結局帰りに汽車から突き落すと言う計画は取りやめて米子駅に引きかえしたが、途中で先に渡した前記財布は被告人八谷が同女から再び取り戻しておいた。

当時被告人八谷は、所持金もようやく残り少なくなつたため、被告人石丸に電話して送金してもらうことにし、同夜は米子駅待合室で夜を明かしたが、その際被告人八谷は、今後の処置について独り思いめぐらした末、いつそ古館よしの殺害の計画を断念しようかとも考えたものの、そうすれば多額の報酬を失うことはともかくとしても、被告人石丸から不甲斐ない男と侮られるのがいかにも口惜しく、かつ被告人西村との約束のことなどあれこれ思案した挙句、最早汽車から転落させて殺害することを再度試みるのが困難であるところから、この際刃物で刺殺して男の面目を立てる外はないと考えるに至り、同夜被告人西村にその旨打ち明けたところ、被告人西村としても、最早あとにひけないとの思いからこれを承諾し、殺害する場所を岡山と決め、刃物などは被告人石丸からの送金があり次第準備することにした。

翌一九日早朝被告人八谷は、被告人石丸に電話を掛け、二万円送金方を頼んだところ、被告人石丸は、徒らに日を費やしていることを非難したが、結局送金を承諾したので被告人八谷ら三名は、再び光田旅館に宿をとり、古館よしのの入浴中、被告人八谷は、同西村に命じて同女の持物を点検させ、同女が米子に関係するものを所持していないことを確認させた。

翌七月二〇日昼すぎごろ右二万円の送金が届いたので旅館を出て、近くの喫茶店に入り、古館よしのをパチンコ屋に行かせたのち、被告人八谷、同西村の両名は、殺害の具体的方法を更に細かく相談し、被告人西村が同女の背後からタオルで口を塞ぎ、被告人八谷が前から刃物で刺すことに決め、米子市内の金物屋で刺身庖丁二本(昭和三九年押第九一号の二二、同号の二三)を購入し、これを新聞紙に包んで被告人八谷が所持するカバンに入れ、次いで同市内のデパートで白手袋二足(同号の二五はそのうちの一足)を、駅へ赴く途中ズボン一本とタオル一枚(同号の二四)をそれぞれ買求め、刃物で殺害する準備を万端整えたうえ、古館よしのには、岡山に女を探しに行くといつわつて米子発午後三時四六分の汽車に乗せ、同日午後八時すぎごろ岡山駅に到着した。

そして同駅到着後、被告人八谷は、殺害場所を探すため、まず被告人西村、古館よしのとともに西川沿いに岡山市南方二丁目附近まで歩き、同女を近くの飲食店に待たせて、さらに被告人八谷、同西村はあてもなく市内各所を探し求めたが、結局適当な場所が見当らなかつたので同女を連れて一旦岡山駅に引き返した。当時古館よしのは、鉄道弘済会の紙袋(昭和三九年押第九一号の二一)に所持品を入れて持つていたが、被告人八谷は、その紙袋から犯行が発覚することをおそれ、同所で、被告人西村に新聞二部(同号の三四はそのうちの一部)を買わせ、殺害の後右紙袋と包みかえるよう指示するとともに、自ら小倉駅までの切符二枚を買い、被告人西村に一枚を渡して逃走の準備をしたうえ、右被告人両名は、同駅前の屋台店で納涼の場所として後楽園などがあることを聞き、直ちにタクシーで右後楽園に行き、附近を探し歩いた結果蓬莱橋下の旭川河原が暗くて人気もないところから同所を殺害場所と決め、被告人八谷は、被告人西村に石丸トメの本籍氏名を書き込んだ前記財布を渡して、これを古館よしのに渡しておくよう指示し、同被告人が同女を駅まで呼びに行つている間に、前記ズボンをはき庖丁を取り出すなどの準備を整えていたが、橋の上から通行人に発見されそうな不安にかられて来たので同所で殺害することを断念し、まもなくやつて来た被告人西村、古館よしのとともに附近をしばらく歩いた後、他に適当な殺害場所を探すためタクシーに乗り、運転手の案内で同日午後一一時三〇分ごろ岡山市三野四三五番地三野公園入口で下車し、石段を登つて同公園の頂上に至つた。同所で被告人八谷は、古館よしのから離れて被告人西村とともにベンチで休息するうち、附近にはすでに人気もないところから、被告人西村の「どこでやるんですか。」との言葉に促がされ、いよいよ同所で古館よしのを殺害する決意を固め、同被告人に対し「降りるときにやろう。紙袋のことは忘れるな。」とその決意を告げたので、同被告人もいよいよ同所でよしのの殺害を実行するものと考え、そこで被告人西村が、用意の手袋(昭和四〇年押第九一号の二五)をはめタオルを首にかけて準備をしたとき、古館よしのが下山を促して先に石段を降りかけたため、その後を被告人西村、同八谷の順に続いて降りながら被告人八谷はその途中カバンから刺身庖丁一本(同号の二二)を取り出して機をうかがううち、同公園内の散歩道に差しかかつたとき、被告人八谷が「ええ眺めじや。」といつたのを合図に、被告人西村はいきなり古館よしのの背後より同女に抱きつき、所携の右タオルで同女の口を押え、一方被告人八谷は、急ぎ同女の前にまわり、右刺身庖丁を振つて同女の胸部、腹部等所をかまわず一〇数ケ所を突き刺し、よつて同女をして胸部刺創に基づく失血により同月二一日午前〇時ごろ即死させ、以て殺害の目的を遂げたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(被告人西村厳の累犯前科)

同被告人は、(1) 昭和三一年一二月二五日佐賀地方裁判所で詐欺、窃盗、横領罪により懲役一年に処せられ、昭和三四年八月二四日右刑の執行を受け終り、(2) その後犯した窃盗、詐欺、横領罪により昭和三四年一〇月二七日同裁判所で懲役一年二月に処せられ、昭和三五年一二月二六日右刑の執行を受け終つたものであつて右事実は同被告人の司法警察員に対する昭和三九年七月二五日付(記録二、三七九丁)および同年八月二日付供述調書ならびに前科調書によつてこれを認める。

(法令の適用)

被告人三名の判示所為は、いずれも刑法六〇条、一九九条に該当するが本件はいわゆる三野公園の身代り殺人事件として岡山県下は勿論北九州地方までかなり世人の耳目を聳動した事件であるのでその量刑にあたり特にその情状についてやや詳細な検討を加えることとする。

被告人らの犯した本件犯行は、判示の如く極めて綿密、細心、大胆かつ惨虐なものであつて、いずれも金銭に眼が眩み、力をあわせてその殺害計画を実行し、全く罪咎のないのみかかえつて被告人らを信じて疑わなかつた被害者をして、異郷の路傍にその薄幸不遇の生涯を無念のうちに終らしめ、その生命を完全に奪い取つて野辺の朝露の如くにはかなく消えしめた点、誠に天人ともに許さない非道のものであり、泉下に眠る被害者の痛憤遺恨を察するとき、被告人らの罪責は極めて重大なものがあると言わなければならない。

殊に、被告人石丸文子は、その身被害者と同じ女性でありながら、本件殺害計画を長期にわたり執拗に画策し、知謀をめぐらして、或いは木下国三をして実行せんとし、失敗するやまたまた被告人八谷忠治を駆使して遂にその計画を実行せしめた点、その心情には唯冷酷非情な打算あるのみと評しても過言ではない。被告人石丸文子にして、その発意以来三年余の永きにわたる間、その心中に一片の愛憫の情が一度なりとも宿ることがあつたならば、よもや本件は起りえなかつたであろうとさえ思われる。全く遺憾の極みと言うの外なく、同被告人に対し強くその責任を問い、将来ひたすら慰霊と贖罪の生活を送るよう期待するものである。

被告人八谷忠治については、被告人石丸文子の右の如き計画に加担し、ただ目前の利得に心を奪われて殺人を請負い、時に躊躇逡巡しつつも最後には自己の面目や男としての意地を貫こうとの浅慮のままに、結局か弱い無抵抗の女性である被害者に直接手を下し判示のごとくその胸腹部を十数回も突刺すと言う残虐さを以て貴重な人命を無残に奪い去つたものであつて、その実行者としての同被告人の責任は、優に被告人石丸文子のそれに比肩するものと言うべく同被告人と同じく強く責任を問われてしかるべきであろう。

更に、被告人西村巌について言へば、被告人八谷忠治からの従前の恩義よりして拒み難いものがあつたとは言え、同被告人の誘いにたやすく乗じ、些少な金銭のため本件犯行に加担し、同被告人の実行々為を容易ならしめるべく加勢した点その刑責は到底軽いものとは言えないが、しかし他面深い経緯は知らずにただ同被告人の指示を待ちそれに従つて行動したものであること、犯行後最も犯情の軽い同被告人のみが独り仏壇に灯明をあげ被害者の霊前にぬかずいて合掌していることは改悛の情の顕われの一とも認め得られるのであつてこれらのことを合わせ考慮すればその責任は他の被告人両名のそれに比しおのずから軽いものがあると言いうるであろう。

よつて、その他記録に現われた一切の情状をも併せ斟酌したうえ、所定刑中被告人石丸文子、同八谷忠治につきいずれも無期懲役刑を、被告人西村巌につき有期懲役刑をそれぞれ選択し、被告人石丸文子、同八谷忠治をいずれも無期懲役に処し、被告人西村巌には前記の前科があるので同法五九条、五六条一項、五七条、一四条により三犯の加重をした刑期の範囲内で同被告人を懲役一〇年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうち被告人石丸文子、同八谷忠治に対しては各三〇〇日を被告人西村巌に対しては四〇〇日をそれぞれその刑に算入し、押収してある刺身庖丁二本(昭和三九年押第九一号の二二、同号の二三)は、判示殺人の用に供しまたは供せんとした物でいずれも被告人八谷忠治以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項を適用してこれを被告人八谷忠治から没収し、訴訟費用のうち主文末項に記載した分は、刑事訴訟法一八一条一項本文によりこれを被告人石丸文子に負担させ、その余の分については、同項但書を適用して被告人八谷忠治、同西村巌に負担させないこととする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 牛尾守三 谷口貞 小長光馨一)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例